やりたくないことを言えない理由
大切なあなたへ
いよいよ梅雨入り間近という感じで、雨が増えてくるシーズンになりました。
忙しさにかまけて奔走しきっていた1ヶ月を経て、この週末、私は抜け殻のようになってしまいました(笑)。今日も雨で「会社行きたくないな〜。あの会議もあの会議も自分が出る必要あるのか謎なのに出たくない!えーい、今日は休も!」と休みました(笑)
考えてみれば、1ヶ月、私はかなり重荷を自分で背負っていたんだなと思います。
「業務委託になる前にしっかり仕事しないとこれから仕事もらえなくなってしまうのでは?」とか、「若い子達のために自分のことは後回しにして頑張らなきゃ」、同時に「副業とかいろんなことを今やっていかなければ今後フリーランスの時の仕事に困ってしまう」など、先の恐怖や他の人の目に晒されまくっていたなと。笑
正直にいうと、学んだことはあるけれど、そこまでやりたくないことをたくさん自分に勝手に背負わせていました。それはエネルギー不足を起こす訳ですよね。
ところであなたは、生活や仕事のいろんな場面でやりたくないのにそれを引き受けてしまったり、「やりたくない」と断ることができないということがありませんか?
心理学では「反動形成」というものがあります。
反動形成はストレスへの対処「防衛機能」のひとつで、「自分の本当の感情とは逆の行動や表現をする」ということです。短期的には自己防衛効果が高いですが、続けると疲弊するなど様々な悪影響が出てきます。
私はこの反動形成でめちゃくちゃ人生悩んできたんだな〜と思ったんですね。今回もその現象のひとつなのかなと思いました。
幼少期の「1個違いの姉が亡くなってあなたが生まれたから、あなたはもしかしたら生まれてなかったかもしれないんだよ。ありがたい人生だと思いなさい。」という親の言葉や、4つ上の姉の「気持ち悪いんだよ!こっち来ないで」という言葉(小さい頃によくある、妹より自分を親に認めてもらうための精一杯の反抗だったことは今はきちんとわかります)。
そんな経験から、自分がそこに存在するには、家族にありがたく媚びへつらい、嫌なことでも引き受ける優しさがないといてはいけないと勝手に思っていました。だから親にとっての私が「言うことを聞いてわがままをあまり言わない子であるように」、姉にとっての私が「いつでも姉の肩を持って、お姉ちゃんの言うことを忠実に守る子であるように」いなくてはいけなかったし、友達にも「優しい相談相手」でいなきゃいけなかったし、恋人や結婚相手も「嫌なことも優しくやってくれる心の広い人」でいなきゃいけなかった。
そして社会人になったある時、知り合いの人に「なんでも受け入れてくれるパーフェクトな人だよね」なんて言われた時、言いようのない怒りが自分の中で湧いてきたことがありました。もちろんその人は、真剣に言ったわけでもなく、お世辞やコミュニケーションの一環として言ったんだと思います。でも自分の中に「わかったようなこと言わないで!」と言う怒りが湧いていたんですね。
そこで気づいたのが、私はずっと「優しくして欲しかった」んだということ。パーフェクトな人間だなんて褒められたところでちっとも嬉しくなくて、本当に欲しかったのは「純粋な優しさを私に向けて欲しい」と言うことでした。親に対しても、姉に対しても、友達も、恋人も結婚相手も。ただ優しく「そこにいてくれてありがとう」と愛情をもらいたかったんだなと。
それが欲しかったから、相手に優しいふりをしていた自分に気づきました。でもそれは本当の心からの優しさではなかったから、相手から「パーフェクトだね」なんて演技がバレてしまったことに怒りを感じたんじゃないかと思います。
ある時、お茶のお稽古で先生が「優劣はつけないよ。茶杯を横に並べて一緒に。」と茶杯を横に並べた時、私は無償の愛と優しさを感じました。先生の中には大きな愛と優しさがあったから、私はここまでお茶を愛し、その空間や人たちを愛しているんだと思います。
シンプルに人に優しくあろうと思えば、「やりたくない」と言う言葉も容易に言えるようになります。まずは自分を愛し、相手を愛して信頼することが、何よりも近道です。反動形成なんて回りくどい方法を覚えなくても大丈夫。
また長くなってしまいました。雨が多くなるシーズンですが、冷えにはお気をつけて。ではまた。
すでに登録済みの方は こちら